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育郎さんの映画評論 |
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ビルマ、パゴダの影で すでに管理人さんの映画評が出ていますが、ま、追加コメントということで。 ビルマの現状が非常によく描かれたドキュメンタリーです。「観光取材と偽って」ということ自体が、今のビルマでは命がけだということを知っておく必要があります。しかも監視の目をかいくぐって、ジャングルのカレン、カチン、ロヒンギャなどの難民、そして反政府組織であるABFSUなども取材に行っている。これはもう恐るべき行動力・取材力です。 大人へのインタビューが少ないのも当然。大人はいま何もしゃべれないのです。恐怖政治下で、下手なことを言えば一家・一族が皆殺しになるかもしれない状況。登場人物の誰の顔にも笑顔が見られないという異常さに、私たちは現在のビルマ(決して軍事政権がいう「ミャンマー」ではなく)の希望のなさを見せつけられます。 Tシャツを買うという程度の支援以外に何ができるのだろうと考える人は、まずこの映画を観ておくべきでしょう。 (育郎 2008年03月17日22時12分) |
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それでもボクはやってない 周防正行監督の11年ぶりの映画。すでに時期遅れかもしれないけど、このサイトには載っていないようなので書いてみる。 えん罪事件に関わっている友人が、以前こんなことを言っていた。「最近、裁判所でよく周防監督を見かけるんだよね」と。 前作の『Shall we ダンス?』以来。取材に3年を費やしたというのもうなずける。 この映画で、驚いたことが2点ある。 ひとつは、けれん味の全くない、かつエンターテインメント性も極めて少ない直球勝負の映画であること。 もうひとつは、そんな作品を大手映画会社が作り、配給したこと。『Shall we ダンス?』がなかったら、いくら周防監督でもこのような作品は作れなかっただろう。 映画は大半が裁判のシーンだ。それ自体は退屈な映像であるはずなのにぐいぐいと観客を引っ張って行くのは、監督自身が言うように「裁判自体の面白さ」だといえる。 痴漢えん罪事件を扱ってはいるが、テーマはまさに「これが、裁判」。日本の裁判が持つ問題点を、徹底的なリアリズムで描き出している。ひとつの動物園へ行けば世界中の動物が見られるように、この映画を1本見れば裁判が−−理想や建前の裁判ではなく、どうしようもない事実としての裁判が−−わかるという仕掛けだ。 周防監督の言葉。「やっぱり映画は僕にとっては手段なのかもしれない。今回は、まさにそれを実感するような映画だったんですけど、まさしく"裁判"が問題だったんですよ」。 まだ観てない人、ぜひ観てください。 (育郎 2007年12月08日11時30分) |
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アメノナカノ青空(原題:...ing) えらく古い映画を持ち出して恐縮です。 2005年に日本でも公開された韓国映画です。ご覧になった方も多いことでしょう。典型的なボーイミーツガールに、不治の病、死別‥‥と悲恋ものの定番材料を並べ、そして二度と会えない彼女の想い出が込められた絵という、泣かせるための典型的なテクニックを駆使した作品。‥‥と皮肉っぽく言っていますが、よくできた恋愛ものだし、素直に物語に浸れ、素直に泣ける映画です。 ただ、わざわざここで採り上げようと思ったのは、最近改めてビデオを見て、素朴な疑問が生じたからです。 主人公の女子高生ミナと、カメラマンの卵ヨンジェが恋に陥るわけですが、そのきっかけは何だったのか。ミナがヨンジェに惹かれるようになるのは、ヨンジェの強引なアプローチと、彼のユーモア感覚、それにカメラマンという職業的な魅力に大きな要因があります。 逆にヨンジェはなぜミナに惹かれたか? ミナは口数も少なく自己表現もしない、その性格もよく掴めない普通の女子高生です。魅力があるとすればただひとつ、男の眼から見て「可愛い」というだけでしょう。 イ・オニ監督が描き出した2人は、かたや積極的個性的な男性像。かたや可愛いだけの女性像です。‥‥この2人の関係は、果たして「新しい」のでしょうか。 実はこういった男女像の描き方は、ひどく古めかしい男性視点からのそれと何ら変わっていません。新しい革袋に、相変わらず古い酒が入っているとしか私には見えません。 あとから知って驚いたのは‥‥、このイ・オニ監督は女性なんですね。この映画が初監督の、当時27歳の若手。 女性もまた、「可愛い」に価値を置いた受け身の愛にしか関心はないのでしょうか。 (育郎 2007年11月22日23時38分) |
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ワタシの王子 監督:小口容子(2005年ビデオ作品、15分) この作品を東京・国立にある居酒屋シアター「キノキュッへ」で初めて見ていたく感動し、人見知りをする私が上映後あえて小口監督に声をかけたといういわくつき(笑)の作品だ。 渋谷UPLINKの「変態まつり」と称する映画フェスティバルで見たのが二度目。どうしてももう一度見たいと思っていた。 というのは、初めて見て感動したにもかかわらず、月日が経つとともにその具体的な内容がどうしても思い出せないという、作品に対する奇妙な距離感を感じていたからだ。 面白かったのなら、それはかくかくしかじかの理由で、と説明できるのが普通。できないということは、若干アルツ君の気があることを差し引いても、そこにはなにか意味があるはずだ。 結論を先に言えば、恐らく小口監督と観客の私とでは生理的文脈が異なっているからではないか。マゾヒストを自称する小口監督の生理的文脈が、私には追いきれていないのではないかという気がする。そこがまた、私が小口作品に惹かれている理由でもあるのだが。 前置きが長くなった。 自由を奪って石ころのように床に転がし、自意識を奪ってほしいと願うM的心性を持つ主人公(監督自身)が、ご主人様(これを小口監督は「王子」と呼ぶ)になりうる理想のサディストを求めて伝言ダイヤルにはまる。 青森の監禁事件をいわばcontrol(比較対照)として描かれるこの性的彷徨に、果たして終わりはあるのだろうか。 繊細きわまりない、下手をすれば容易に壊れかねない自我の周辺をさまよいながら、この作品は時にユーモラスに、心地よいリズム感を持ってヘンタイ的世界を描き出している。音楽も効果的だ。 (育郎 2007年11月18日10時57分) |
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育郎さんの映画評論 − おわり − |